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アルキメデスは手を汚さない [小説(本格ミステリー)]

小峰元の『アルキメデスは手を汚さない』を読みました。

アルキメデスは手を汚さない復刻版っていいなぁ。
昔の本、
とくに自分の生まれる前の本って、
ふだん、
文学的にすごい有名な本くらいしか
(太宰とか三島とか芥川とか)
あまり読む機会がないもん。

舞台となるのは1972年。
あたしの生まれる10年も前の話だけれども、全然大丈夫。
実感として「まったくわかんないなぁ」ということはなく…。
むしろ、現在でも十分起こりうる状況、あるいはありえる考え方が多くて、
びっくりしたくらいです。
72年と言えば、ちょうどあたしの両親も高校生くらいだけれど、
なんだかあたしと大して変わらない高校生活を送っていたのかなぁ、なんて思ったり。
(ただ、これは「悪漢小説」らしいから、
 当時の高校生の全部が全部、こんな高校生ではなかったのだろうけど)

そう考えると、ここ30年くらい、
社会っていうのは、とくに学校の中っていうのは、あんまり変わってないのかも…
と思ったりします。

ただ、やっぱり共感できないところもあって…。
一番、現在の高校生とは違うなぁと思ったことは、
やっぱり「思想」。

社会学者である土井隆義は、「生きづらさの系譜学」(詳しい出典はブログの最後)という論文の中で、
だいたいこの本の高校生たちと同世代にあたる少女(高野悦子)と、
1990年代後半に高校生をしていた少女(南条あや)、
2人が自殺するまでの数年分の日記(南条の場合はブログだけど)をとおして、
彼女たちが「自己」をどう捉えているのか、その相違点や共通点を分析しています。
その結果、明らかになった相違点のひとつに、
高野の場合は「思想」が「自己を支えるもの」として機能していたけれども、
南条の場合にはそのような「思想」は見受けられない、ということがあります。
※今、手元に論文がない状態で書いているので、細かいところで違うところがあるかも。

思想、というのは、政治的・社会的・啓蒙的な思想。
土井の論文における高野や、この本における主人公たちは、
学生運動が盛んな時期を体験しているから、
その影響を受けて、
自らのアイデンティティの根幹をなすほどに、そうした思想に傾倒したり、
あるいは傾倒とまではいかなくとも、受容しやすい構えができていたりする。
でも、今の若い世代にとっては、そういう思想はむしろかっこわるかったりするし、
だからといって、そうした思想に取って代わるような新しい思想もない。

あたしがこの本を読んで、一番共感しがたいと思った部分、
一番、今とは違うなぁと思った部分は、
やっぱりそうした政治的・社会的な「思想」のもとに行動を起こすことができる、というところ。

なんか、書きたいことは1つだけだったのに、長くなっちゃった。
…というわけで、今日はここまで。

注)
土井隆義、2002、「生きづらさの系譜学 ー高野悦子と南条あや」、亀山佳明ほか編、『文化社会学への招待 ー<芸術>から<社会学>へ』、世界思想社


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