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プリズムの夏 [小説(ミステリー以外)]

関口尚の『プリズムの夏』を読みました。

プリズムの夏なんていうか、「必死!」って感じ。
自分の将来に対する必死さ、とか
恋愛に対する必死さ、とか
人生に対する、あるいは生きることに対する必死さ、とか。

必死であるがゆえに、
臆病になって逃げ腰になってしまったり、
必要のないところでムキになってしまったり、
今になってみれば
そんなに難しく考えることじゃないのに頭を抱え込んでしまったり、
そんなに絶望するようなことでもないのに絶望感を味わったり。

なんか高校生の時って、確かにこんな風に、
いつでも真っ向勝負!
…みたいな感じだったように思います。
「あたしはまだ高校生だけど、高校生は高校生なりに真剣に考えてんだよ!」
って、両親や先生に向かって言ってた昔を思い出します。
そういうことを周りに向かって本気で訴えていたってことが、
今思い出すとけっこう恥ずかしいんだけど。

でも、そういう必死さを懐かしいなぁと思う以上に、
この本を読んで気になるのは、ある種の表現です。

あたしは、
好きな人を忘れるために他の人に抱かれた女を「げすな女」とは思わない。
「汚れた」とは思わない。
とはいえ、
そういう行為が「過ち」だと思い、罪悪感を抱いて、
そういう行為に及んでしまった自分自身を「げすな女」と表現する気持ちはわからないでもない…。
が! それにしても、
自分のことをそう表現せざるを得なかった人の、そういう台詞を聞いて、
本人以外の人がそれに同調する気持ちはまったくわからない。

主人公は、自分の好きになった人が
「げすな女ではないと信じたかった」、「げすな女だと認めたくなかった」と何度か言うけれど、
それは結局、
好きな人を忘れるために他の人に抱かれた女は「げすな女」であると認めている、
あるいは、そういう社会観念を疑問も持たずに受け入れている、
ということ。

主人公が高校生であることを考慮するならば、
それは子どもの素直さゆえのこと
…といえないこともないけれど、
そうであるのならば、
素直だということは必ずしも正しいことではないのだ、と思います。


タグ:青春小説
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