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プラネタリウムのふたご [小説(ミステリー以外)]

いしいしんじの『プラネタリウムのふたご』を読みました。

プラネタリウムのふたごそういえば、小学校以来
プラネタリウムって、行ってないなぁ…。
いや、
あたしは星も神話も
別に好きじゃないんだけれど。
なんか久々に行ってみたい気分。

さて、で、感想です。
『プラネタリウムのふたご』。
いしいしんじは本当に、
1冊に1回は必ず、イイことを言う。

今回気に入ったのは、裏のあらすじにもある、
「だまされることは、だいたいにおいて間抜けだ。
 ただしかし、だまされる才覚が人にないと、
 この世はかさっかさの、笑いもなにもない、どんづまりの世界になってしまう」
という一節。

あたしの解釈だと、要は、
「人生を豊かにするためには、遊び心が大事!」ってこと、たぶん。
あたしがこの世でもっとも尊敬する人は、
「何をするにもユーモアが大切だ」と言いますが、
きっと、そういうこと。

さて、で、もう少し詰めて考えてみると、
ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、
「愛とはコミュニケーション・メディアである」と言いました。
どういうことかっていうと、
人と人は、
本来ならば、どんなに言葉を尽くしても分かり合えることはないのだけれど、
なぜか、分かり合えたような気になってしまう。
親しい間柄だととくに。
それは、互いにそこに愛があると信じているから…だと言うのです。
つまり、コミュニケーション・メディアとしての愛、っていうのは、
本来は不可能であるはずのコミュニケーションを可能にさせる仕掛け(?)
みたいなものだというのです。
(詳しくは 佐藤勉・村中知子 訳, 2005, 『情熱としての愛』 木鐸社 を参照)

とすれば、
そもそも、あたしたちがコミュニケーション可能なのは、
本来は分かり合えるはずがないのに、分かり合えると信じているから。
つまり、「だまされて」いるからなのであって…。
そして、
本来、愛なんていうものは実在しないのに、
それがあたかも実在するかのように感じられるのも、
そこに愛があると信じているから。
つまり、「だまされて」いるから、なのです。

でも別に、わざわざルーマンを取り上げなくても、
お金がお金として機能しているのは、
ただの紙切れに1000円の価値があるとみんなが信じているからだし、
モノの名前が名前たりえるのは、
みんながそれはそういう名前だと信じているからだし…。
つまり、世の中、たいていのことは、
「みんなで揃ってだまされる」ことによって成り立っているのではないかしら、
と思ったりするのです。

なんだか本の内容とは離れた感じもしますが、
要は、
やっぱ、だまされる才覚って、
ふつーに生きていくためにも必要不可欠な才覚なんだなぁ、って。


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